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2007年03月09日(金) 00時00分

出陣 07都知事選 <1> 現場で知った本来の福祉 東京新聞

■前宮城県知事 浅野(あさの) 史郎(しろう)氏(59)

 「地方自治のエキスパート。自分で言うのも何だけど(都知事は)適任でないこともない」。宮城県知事三期十二年を全うした自負がある。

 ゼネコン汚職に伴う県知事選で初当選。対立候補は逮捕された知事補佐役の副知事だった。

 「私を知事に推したのは、能力や実績ではなく『宮城県の恥を吹き払ってほしい』という県民の思い」。これを「出生の理由」と位置付け、知事として悩むたびに立ち戻った。

 厚生省(当時)課長からの転身。クリーンな官僚候補を探す新党さきがけなどから「最後の一人」として担ぎ出された。都知事選で民主党から「最後の一人」として推薦候補の打診を受けた図式に似ている。

 当時は、そのまま政党推薦を受けた。当選後、「選挙が終われば味方が怖い」と知る。見返りを求める人たちに、便宜供与は一切しないという意味で、「選挙の借りは選挙(を支援すること)で返す」と宣言した。

 政党推薦を排した勝手連頼みの「浅野流選挙」は、二度目の県知事選から。「選挙の図式が、知事のありようを決定づける」と、しがらみを断った。結果は自民、新進(当時)両党の「保保連合」候補を二倍の得票で破っての再選だった。

 「日本一の福祉先進県に」が、一期目からの公約。福祉への傾倒は一九八五年、厚生省から北海道福祉課長への出向がきっかけだ。

 「施設を造ってくれ、補助金を確保してくれという陳情が殺到した。おかしいぞ。障害者はそんなことを望んでいない」。現場を知るほど、本来の福祉とは「あわれみではなく、社会を住みやすくする国づくり。福祉に携わる人は国士」との思いを強くする。

 県知事時代は、障害者と健常者が助け合いながら暮らす、ノーマライゼーションの実現に力を入れた。

 二〇〇五年八月、「権力に長く居座ると腐敗する」と、突然の四選不出馬宣言。それから一転しての都知事選出馬は「ふるさと日本が荒れんとしている」から。ゼネコン汚職の際も、「ふるさと宮城が荒れんとする」と称した。

 東京からの政治改革を意図して、都知事選に出馬した。「理由の一つが、都政の惨状だ。『政治をあきらめたい』という(都民の)状況が見て取れる」

 「選挙を通じて知事になっていく」。元神奈川県知事の故長洲一二氏の言葉が行動指針。「選挙は好き。わくわくしている。大げさでなく日本の政治風土を変えたい」 (小坂井文彦)

◇ ◇

 二十二日に告示される都知事選。すでに「出陣」を決めた主要候補予定者の人物像に迫った。

 1948年2月8日生まれ。仙台市出身。70年に東大法学部を卒業後、厚生省(当時)入省、老人福祉課長補佐や障害福祉課長を歴任。在米日本大使館一等書記官などに出向した。93年11月に宮城県知事選に初当選、2005年11月まで3期務めた。現在は慶応大学総合政策学部教授や同県社会福祉協議会会長を務める。


http://www.tokyo-np.co.jp/00/tko/20070309/lcl_____tko_____000.shtml