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2007年03月06日(火) 00時00分

大空襲やっと描けた朝日新聞

 炎に包まれる家。赤く染まった空に焼夷弾(しょう・い・だん)を落とし続ける爆撃機B29。我が子をかばうようにうずくまる女性——。その絵は東京大空襲から半世紀以上がたって、ようやく描くことができた。当時、葛飾区に住んでいた看板業吉野山隆英さん(76)。空襲体験者が少なくなるなか、「記憶として残したい」と筆をとった。展示をしてくれる人に貸し出したいと思っている。
(抦崎太郎)

 絵は横100センチ、縦80センチの水彩画。04年に描いた。

 吉野山さんは45年3月10日、大空襲の当時、葛飾区青戸の自宅にいた。本所区(現・墨田区)にあった都立本所工業学校(現・都立本所工業高校)に通っていた吉野山さんは、学校の様子が心配で、11日に線路を歩いて見に行った。

 恐怖心と、夢中に歩いたせいか、道中の様子は覚えていない。

 学校に着くと、救護所になっていた。先生に言われ、学校の地下室に行くと50〜60人のけが人が寝かされていた。

 やけどがひどく、瀕死(ひん・し)の人も多い。部屋中にうめき声が響く。「あまりにひどくて、へたりこんだ」。持っていた弁当を置き、逃げるように出た。

 帰り道は逃げた自分を責めた。「せめて惨状をよく確かめて帰ろう」。炎から逃げようとしたのか、建物の入り口の前で折り重なった遺体の山があった。遺体をトラックに乗せていた兵隊を素手で手伝った。

 再び帰路につくと、子どもを抱いたまま、うずくまって焼けた女性の遺体の前で立ち止まった。「世の中に神も仏もいない」と思った。

 戦後、吉野山さんは絵を描くことはあっても、戦争の絵はどうしても描けなかった。「あまりにもむごたらしくて」絵にできなかった。

 ところが、年々空襲体験者が少なくなる中、小学校時代の同級生の勧めもあり、「記憶として残したい」と考え、描いた。

 母子を中心に置くことを決めた。「焼けて、神様になるように」と、炎で母親の体を際だたせるようにした。

 いまは千葉県流山市に住む。これまで1度だけ市の美術展に出展したが、その後は「なじまないような気がして」展示会に出さずに事務所の壁にかけている。

 問い合わせは吉野山さん(04・7159・9280)へ。

http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k_id=13000000703060001