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2007年03月03日(土) 20時11分

志賀島「金印」に偽造説再燃 地元の反応は複雑朝日新聞

 福岡・志賀島の「金印」といえば、教科書にも載っている超一級の「お宝」だ。国宝である。でも、もし、これがニセモノだったら? 昨年、そんな金印偽造説を書いた本が出版された。黒幕としてあげているのが、金印を守った功労者とされる江戸時代の儒学者、亀井南冥(なんめい)。地元福岡では複雑な反応だ。はたして真偽のほどは。

博多湾を望む金印公園。園内には一般の地図とは上下を逆さまにした東アジアの「古代地図」がある=福岡・志賀島で

 『金印偽造事件』。そんな穏やかではないタイトルの新書(幻冬舎刊)が書店に並ぶ。著者は千葉大の三浦佑之教授(古代文学)。捏造(ねつぞう)説を唱えている。

 志賀島の金印は、倭国の国際外交デビューを飾るシンボルであると共に、福岡市の誇りでもある。市の職員には名刺に金色で印影を刷り込んでいる人も多い。

 金印は天明4(1784)年、水田の溝の修理の際に百姓甚兵衛が見つけ、福岡藩の儒学者亀井南冥がその重要性を看破、藩に納められた、と今日まで伝えられてきた。

 文字が彫られた面の長さ(一辺約2.3センチ)が漢代の一寸と合致することに加え、戦後の中国で同じ蛇形の鈕(ちゅう)(つまみ)を持つ「テン(さんずいに眞)王之印」金印や、そっくりな字体で西暦58年に光武帝の子に贈られた「廣陵王璽」金印が出土したことなどが決め手となり、本物としての評価が定着した。

 この定説に真っ向から反論したのが三浦さんだ。

 同じ蛇鈕でも「テン王之印」に比べると造りはあまりに稚拙▽古代の印を集めた文献を利用すれば、江戸時代でも漢代の一寸の印をつくることは可能だった▽発見時の記録にあいまいな点が多い、などとして本物ではないと主張。史料を検討したうえで、南冥と彼を取り巻く関係者による捏造ではないか、と推定する。南冥が館長を務めた藩校甘棠館(かんとうかん)の開校、そして自らのさらなる名声を高めるためではなかったか、と。

 「調べれば調べるほど腑(ふ)に落ちない所が多すぎる。みな、どこかおかしいと思いながら何も言わないのではないか」

 実は、金印の真贋(しんがん)論争は今に始まったことではない。発見以来、たびたび偽造説が現れては消えていった。

 肝心の出土場所が特定できない▽その状況もはっきりわからない▽福岡市教委などが発掘調査をしたが物証が出なかった▽発見のいきさつを記す「口上書」にある発見者、甚兵衛の身元も確かではなく、そもそも実在したのか……。金印には謎が多すぎる。

 定説では「ワのナ」とされる「委奴」の文字だが、奴国(福岡平野付近)ではなく、伊都国(福岡県糸島半島、前原市付近)の「イト」と読む説もある。

 これに対し、地元の関係者や研究者の受け止め方は複雑だ。

 『金印国家群の時代』の著書がある高倉洋彰・西南学院大教授は「蛇鈕の金印は漢代の印制にない。わざわざ蛇鈕に造る必要があったのか。自ら偽物だと言っているようなものを作るはずがない」と反論する。

 福岡市教委文化財部の山崎純男部長は困惑気味だ。「不明なところが多いのは事実だが、偽物とする根拠も薄い。諸説ある邪馬台国論争と同じだ。ただ、金印の長い論争を知ってもらうには有意義では」

 金印を所蔵、展示する福岡市博物館は、当然ながら従来通り本物との立場。偽造説の登場を逆手にとって「興味ある方は、ぜひ見に来てください」(学芸課)とPRする。

 金印発見は200年以上前の出来事だけに、明確な結論を出すのは難しい。

 三浦さんは言う。

 「金印の謎を解くためには、考古学や古代史はもちろん、自然科学も含めた学際的で総合的な研究が必要だ。(自説が)議論のための問題提起になってくれれば」

〈キーワード〉志賀島の金印 「漢委奴国王」の5文字が彫り込まれている。弥生時代の福岡平野にあったという「奴(な)国」の王が中国皇帝から贈られたもので、中国の史書「後漢書」にある西暦57年、「倭奴国が貢を奉じて朝賀した」という記述を裏付ける物証、というのが定説。黒田家に伝わり、1978年福岡市に寄贈された。

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200703030225.html