8店舗が全焼した川崎市高津区の「溝口(みぞのくち)駅西口商店街」で、焼失した店を再建するめどが立っていない。市の農業水路の上を不法に占拠する形で始まった闇市が前身のため、市が現地での再建を認めないからだ。
「火災の直後に立ち退きを迫るのは正直、つらい。でも、同じ場所での再建を認めると、不法占拠状態に戻ってしまう」
高津区役所の担当者は悩んでいる。
「川崎市史」(97年発行)によると、終戦間もない45年末ごろから、溝の口駅周辺に食品などを売る100店ほどが軒を連ねる闇市ができ、にぎわったという。これが商店街の前身だ。
火災は2月4日午前4時半ごろ起きた。川崎市消防局によると、商店街30店のうち、そば屋や鮮魚店など8店、計約390平方メートルが全焼した。いずれの店も市が管理する水路の上に建っていた。高津署は放火の疑いもあるとみて捜査している。
不法占拠状態にあった建物について、市は83年、取り壊しを命じた。しかし店側はその後も営業を続けた。「相手方に権利が発生することになる」と市は借地料を取ってこなかった。
水路の上の建物は、市の下水道条例にも違反している。条例では、橋などの設置を許可することはあるが、「店舗は管理上支障があり、許可できない」としている。
火災後、市役所内部では、水路を管に切り替えて地上部分を商店主に売却する案や、商店街を迂回(うかい)する形で新水路を造る案も検討された。しかし、いずれも多額の費用が見込まれ、迂回用地の確保も難しく、立ち消えになったという。
そして何より、「市内には、ほかにも不法占拠された場所がある。本来は早急に解消しなければならないのに、西口商店街だけ手厚い支援はできない」という。
市は水路の整備計画をまとめたうえで、商店主らと話し合いを重ねる考えだ。路政課は「商店街が街を支えてきた面もある。できる限り円満な解決を探りたい」と話す。
一方、市は、営業できない状態が続いている商店主への支援を模索中だ。個々の店に補助金を出すことはできないが、市経済局の担当者は「別の場所で営業する意欲のある人には、できる限り支援する」という。
近隣の空き店舗を捜し、紹介するという。さらに2月13日には、税理士や社会保険労務士らが再建の相談に乗る会を開き、3店が参加した。
(小島寛明)
「『ここには建てられません』と急に言われても……」。同じ場所での営業再開を考えていた店主たちは、再建を拒む市の対応に困惑している。
全焼したそば店「七福」の店主、極並教行さん(52)の携帯電話に、「まだうちの息子に味を教えていない。どうか頑張って店を復活させてください」というメールが届いた。同じような励ましのメールやファクスが各地から届いている。
七福は、極並さんの母たみさんが40年ほど前に始めた。当時、昼どきは常連客の長い列ができ、近くの寮に住む大学生もたくさん来て、夜を待たずに売り切れてしまうことも度々あったという。
常連だった学生たちは卒業後、全国に散った。それでも、出張で近くに来るたび、ふらりと店に足を運んでくれる。
「変わらないね」。そう言いながらそばをすすってくれる客のため、今の場所で商売再開を願っている。
商店街としては、各店のこれまでの借金返済に加え、再建費用の返済期間も考慮して、市に対し、代替わりしないことを条件に、立ち退くまでに20年間の猶予を求めている。また、現地再開を市に求めるための署名活動も行っている。
極並さんは「違法状態は解消しなくてはいけないし、水路上に建てられないという市の言い分は分かる。20年を区切りに立ち退くので、どうか待ってほしい」と言った。
鮮魚店を営む男性は火事の前まで、毎朝、築地に出向いて仕入れた魚を店に並べていた。新鮮な刺し身が人気だった。
男性は「創業者の多くは逝ったけど、代々伝えられた文化がある。何度か火事があったけど、そのたびに立ち上がってきた」と語る。
商店街の小沢留雄会長(76)は「かつてのにぎわいはないけれど、ここには人情がある。こんなに焼けちゃったけれど、みんな再建に心を注いでいる」と言った。
(藤山圭、佐藤正典)
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