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2007年02月16日(金) 00時00分

50年前のハマに回帰 中区で展示朝日新聞

  半世紀前の横浜の風景や市民の暮らしを記録した写真展「横浜 ノスタルジア—昭和30年頃(ごろ)の街角」が横浜市中区の横浜都市発展記念館で開かれている。会場には当時の横浜で子ども時代、青春時代を過ごした市民らが大勢訪れ、写真を通して50年前に記憶をタイムスリップさせている。会場でそれぞれの50年前を聞いてみた。

(佐藤善一)

  野毛で生まれた三沢利允さん(78)=港北区。横浜は祖父から3代目で、当時は洋品店と帽子店を経営していた。

  「野毛はファッションの最先端地域だった。戦後のにぎわいはすごかった。店も飲み屋も多かった。港町の横浜は外国人が多く、新しいもの珍しいものを何でも受け入れてしまう土壌がある。伝統や文化の壁など関係ない。その雰囲気はいまの横浜にも残っている」

  「父親が(臨港線)東横浜駅の駅長をやっていた。よく遊びに行ったから懐かしい」と常磐義和さん(76)=港北区。東横浜駅は貨物駅で、桜木町駅の海側にあった。妻のスミ子さん(76)とも横浜で知り合った。

  スミ子さんは在日米軍の機関でタイピスト、義和さんは土建会社の主任だった。「当時、妻の給料は自分の2倍あった。結婚は昭和32年。野毛には小さな飲み屋やバー、やきとり屋が並び、画家のモジリアーニの素描が飾ってあるような店もあった。変な人も多かったが、とにかく楽しかった」

  中区生まれの金子澄子さん(69)=藤沢市=は通っていた小学校が米軍に接収され、全校が間門(まかど)小に引っ越した。「校庭のすぐ向こうが海水浴場だった。各地の小学校も間門小で着替えて海水浴に行っていた。弟は三渓園の池でよくザリガニを捕っていた。移動は市電だった。すべてがなつかしい」

  鎌倉に住んでいた上村達也さん(65)=港北区=は「横浜といえば、米軍の印象。遠足で訪れた山下公園は真ん中にフェンスがあり、米軍に接収されていた」。

  戸塚区の土屋隆司さん(57)、広子さん(57)夫婦も共に中心部の出身。隆司さんは「いまより米軍、外国人が身近な存在だった。友だちにハーフの子もいたし、7月の米独立記念日にあった花火大会は楽しみだった」。広子さんは「本牧の米軍居住地で見た、ロープに干した洗濯物が風に揺れる風景が印象的だった。当時、ロープに洗濯物を干すということはあまりなく、『アメリカなんだあ』と感心した記憶がある」。

  同記念館には市民から寄せられた昭和30〜40年代の写真も展示されている。

http://mytown.asahi.com/kanagawa/news.php?k_id=15000000702160005