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2007年02月16日(金) 00時00分

原爆空襲次世代に もんぺ姿「広島」語る朝日新聞

  戦争体験を語り継ごうと、大和市平和都市推進事業実行委員会が市内の小中高校への語り部派遣を始めて6年になる。語り部は、戦後60年が過ぎて戦争体験者が少なくなる中、次世代の若者たちに戦争の悲惨さを伝えなければならないとの思いで立ち上がった男女だ。15日、市立南林間中学校の教室で広島での原爆被爆や横浜大空襲の経験を語った。

(渡辺丘)

  「教室で掃除をしていたとき、ピカッと光ったかと思うと、爆風で吹き飛ばされそうになった。ガラスが私の顔に突き刺さり、広島市は火の海になった」

  1945年8月6日。久保ヨシミさん(74)=相模原市栄町=は、爆心地から約2・5キロの女学校で原爆で被爆した。12歳のときだった。多くの友だちを含む旧制の中学生約7千人が死んだという。

  その当時の自分と同じ年ごろの生徒たちに、セーラー服にもんぺ姿で語りかけた。

  「何も言えずに死んでいった人がいる。60年たっても被爆者差別があり、何も話せない人もいる。自分は74歳まで生きられてよかった。全人類が平和に生きられる世界にしていかなければなりません」

  戦後、しばらくして相模原に移り住み、厚木基地の騒音に悩まされるようになった。「戦争は格好良いものではない。地獄を繰り返してはならない」との思いから3年前、語り部になった。以来毎年、小中学校で被爆体験を話し続けている。

  熱心に耳を傾けていた2年生の馬場美菜子さん(14)は「原爆の恐ろしさを今度は私たちが次世代に伝えていかなければならないと思った。将来、歌手になるのが夢なので、歌で世界に平和を訴えたい」と話した。

  この日は、久保さんのほか60〜80代の語り部7人と生徒の祖父母6人が、2年生237人に、横浜大空襲や川崎大空襲、旧ソ連・満州国境守備の体験を語った。

  実行委員会は、85年度に大和市が平和都市宣言をしたのに基づき、市が中心になって93年度に発足。市内の市民団体や市民らで構成される。学校への語り部派遣は01年度に始まり、06年度には市内の小中高校11校を訪れた。

http://mytown.asahi.com/kanagawa/news.php?k_id=15000000702160002