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2007年02月12日(月) 00時00分

「帝国時代、死は身近だった」島木昇さん朝日新聞

 「一度は死んだ我が体。元気な限り動かし続けたい」。新町川で開かれる新春恒例の寒中水泳大会で例年、「水書」を披露する名物おじいさん、島木昇さん(80)=徳島市鮎喰町1丁目=は、そう話す。旧海軍で飛行兵、終戦時は特攻隊員だった。大日本帝国と日本国。二つの国を生きた世代だ。「帝国時代、死は身近だった。これからの世代は自らが平和を築いていってほしい」。そう願って建国記念の日の11日、自宅前に日の丸を掲げた。(佐々木洋輔)

 1月21日。寒空の下、新町川に海上自衛隊小松島航空隊員や徳島大水泳部員らが次々と飛び込んだ。水着に法被を羽織った島木さんも、左手に白い色紙、右手に筆を持ち川に入った。立ち泳ぎの状態で「亥(イノシシ)」と書くと、見物人からは大きな拍手が沸いた。「水書」は6年前から続ける。「海軍時代は毎日のように冷水に入る訓練があった。水温11度なんてなんてことない」——。

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 挙国皆兵の1943年。島木さんは旧制中学を中退し、少年飛行兵の養成機関だった旧海軍予科練に志願した。戦地に赴くことは、戦死と同義。「どうせ兵隊に行くなら、飛行機に乗りたい」。17歳だった。

 難関の試験を突破し、松山航空隊で待っていたのは過酷な訓練。「大海原で撃墜されても生き残れ」と、水泳の科目は特に厳しかった。寒中水泳は当たり前。冷水の中で我慢する訓練もあった。精神力と耐寒力を磨くためだ。

 44年、青島(中国山東省)の基地では、実戦も経験。その後、土浦(茨城県)の基地にいるときに特攻隊員が募集された。「どうせ死ぬなら遅いか早いかの違いだ」と志願した。

 特攻隊員として長崎県川棚町に集められると、与えられたのはベニヤ板でできた高速艇だった。爆薬を積んで敵艦に体当たりする「震洋特別攻撃隊」だ。「お国のため、天皇陛下のために散る」。戦友たちと勇ましく激励しあった。

 45年6月25日。大本営は沖縄が占領されたことを発表。「次は九州だ」と即日、臨戦態勢に入った。死がすぐそこに迫る一方、生への未練が生まれる。命令のたびに「今日こそか」と顔面蒼白(そう・はく)になった。

 8月9日、大村湾を挟み長崎市方面から、「ドカーン」と障子を震わすほどの爆発音が鳴った。見れば、キノコ雲が立ち上っていた。6日後、日本は降伏した。「ああ、生き返った」。もう忘れようと、持ち物は焼いた。19歳だった。

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 「うお、寒い」「肌が痛い」——。寒中水泳で、大学生らが大声で叫ぶ。「ちょっと忍耐が足りないな」と横目で見ながら思った。6人の孫に戦争の話をすると、「時代が違う」と言われる。それはそうだ。だが、何もかも与えられっぱなしの世代を見ると、不安も感じる。「個人の自由と我慢ができないことは違うだろう」

 復員後、事務官として定年まで勤務した自衛隊の役割も様変わりし、イラク派兵にまで至った。戦後、米国に与えられ続けた「平和」の中で、自主性が失われてしまったのではないかと感じる。「若い世代はもっと自信を持って、自らの手で平和を作っていってほしい」

http://mytown.asahi.com/tokushima/news.php?k_id=37000000702120003