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金泰九(キムテグ)さん(80)。現在の住所は、瀬戸内市邑久町の長島にある「国立療養所長島愛生園」。かつてハンセン病を患い、後遺障害の治療を続ける約400人と暮らしている。
12歳だった38年、製糸業者の父に連れられ、日本に渡り、旧陸軍兵として終戦。妻と開いたシューマイの店は、25歳のころに閉じ、闇ブローカーをしながら大阪の街に潜る。
発病から3年後の52年1月、警察官に路上で職務質問された。ベレー帽にマスク姿。警察署の取調室で「取れ」と言われ、観念した。「お前、病気ちがうか」。「レプラ(ハンセン病)や」。警察官3人が席をけって飛び出していった。
妻の待つ家に帰ることは許されず、翌朝、大阪駅から“お召し列車”に乗せられ、虫明港に到着。「船に乗る時、ああ、これでシャバともお別れかと胸いっぱいだった」。橋のない海の向こう。そこが療養所だった。
園は30年、全国初の国立らい療養所として開設され、38年には島にもう一つの療養所「邑久光明園」が完成。ハンセン病は金さんが入所したころから、治療薬が普及し、完全に治る時代へと向かう。
入所3年目。「妹の様子がおかしいから来てくれ」と義姉から手紙が来たが、外出は許可されず、数年後、会えないまま妻は亡くなった。「病気でなければ、つらい思いをさせずにすんだのに」と金さんは悔やむ。
「医学的見地」から隔離が行われた時代。患者や家族の人権が天秤(てんびん)にかけられ、切り捨てられた。
■ □ 金さんの入所から約20年後の74年、映画「砂の器」(野村芳太郎監督)が公開された。金さんら入所者も映画館に足を運んだ。
「彼ら2人に故郷まで捨てさせたものは、何でありましたでしょうか——」。捜査会議で丹波哲郎さん演じる刑事が、白装束の流浪の親子の境遇をたどる。
同園の自治会副会長、中尾伸治さん(72)は、鑑賞後「今もこんな差別が続いていると思われたら困る」と、思いがくすぶった。食堂に入り、皆で話し合った。「息子の気持ち、わかるよな」。誰かがそんなことを言った。大切な人と別れ、離島で暮らす現実にスクリーンの親子が重なった。
■ □ 88年5月、入所者の悲願だった長島と本土を結ぶ全長185メートルの「邑久長島大橋」が完成。「もう島流しじゃないと実感できた」。入所者の思いから、“人間性回復の橋”と呼ばれた。
96年、隔離政策を踏襲した「らい予防法」が廃止され、国は謝罪。来園者は増え、昨年は約1万人がハンセン病の歴史を学んでいった。
金さんは最近、改めて「砂の器」を自宅で見た。「この病気の問題に誰も触れようとしなかった時代に、いわれのない差別を知らしめた力は大きい」と金さんは言う。しかし「なぜ過去を隠そうとしたのか、なぜ人を殺したのか、その葛藤や苦悩が抜けている。当事者にすれば物足りない」との感想は今も残る。
法律の廃止から10年。映画の公開からは30年以上がたったが、金さんは、まだ“過去の病気”ではないと言う。「法律がなくなってどう変わりましたか、という質問をよく受ける。でも本当は質問をする側の人たちがどう変わったか、そこなんです」
映画で流浪の親子が渡れなかった“橋”。長きにわたった差別と偏見への見直しが進む中、映画は今、何を問いかけるのだろうか。(神原康行)