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2007年01月09日(火) 22時09分

ナンバーワン白書/ボンカレーは母の味朝日新聞

 1968年、世界初の市販用レトルト食品「ボンカレー」を大塚食品工業(現・大塚食品)=本社・大阪市中央区=が発売した。以後、シリーズは現在まで計25億食を売り上げるロングセラーとなった。一番売れたのは73年で1億食。国民全員が1食ずつ食べた計算になる。その開発は、すべて県内で行われた。

 ボンカレーのパッケージといえば、着物姿でほほ笑む女性。誕生以来、大塚グループ提供のテレビ時代劇に出演していた松山容子さんが務めてきたが、05年8月、最新の技術で復刻した「ボンカレークラシック」が発売されたのを機に、37年ぶりに松坂慶子さんにバトンタッチした。

 3階建てのビルに入ると、うっすらとカレーの香りが漂う。徳島市川内町の大塚グループ工場群の一角にある大塚食品徳島食品研究所。クラシックは、ここで開発された。

 担当した第2研究室長の林和美さん(44)は徳島大学医学部栄養学科卒業で、松坂さんと同じ2児の母。幼い頃から、ボンカレーになじんできた。「私たちの世代には松山さんのパッケージはレトルトカレーの代名詞のような存在だった」。その最新版の開発を担う責任を感じた。

 与えられたコンセプトは「元祖を思い出させる懐かしい味」と「家族の健康のためお母さんが作った愛情たっぷりの味」。だしのきいた和風、大きな具がごろごろした手作り風……。検討の結果、しにせの洋食屋さんの味をめざすことになった。問題は「愛情」を、味でどう表現するかだった。

 林さんはニンジン嫌い。母親は、いつも小さく切って入れてくれた。「母がしてくれたこと、自分が子どものためにしていることをとり入れよう」と思った。

 タマネギは3形状。アメ色までいためたもので甘さを、みじん切りで舌触りを、スライスでシャキシャキした食感を出した。野菜や果実30種類のエキスを入れた。ソースをかけて食べる人も多かったので、ウースターソースを加え、少し辛口に仕上げた。

 試食は舌が敏感な朝一番にする。だから、カレーが朝食の毎日。さすがに、家では作る気がしなくなった。半年間で数百種を試作し、ようやく納得のいくものができた。両親と2人の息子にも食べてもらった。「おいしい」。笑顔が合格の合図だった。

 レトルトとは「高温殺菌釜」。気密性のある耐熱容器に密封し、加圧加熱殺菌することで、常温でも長期保存を可能にした。

 64年、スウェーデン軍が真空パックのソーセージを携帯食にしているという米国の包装業界誌の記事が、大塚食品工業の課長の目に留まった。同じ頃、総菜屋でポリ袋に入ったカレーを買って帰る客を見かけた役員がいた。

 大阪の業務用スパイス会社を引き継いだばかり。販路開拓のための新製品を模索する会議で、ふたつが結びついた。清涼飲料「オロナミンC」開発の実績がある播磨六郎氏(故人)を中心に、鳴門工場で開発が始動した。

 殺菌は薬のアンプルの技術を応用したが、問題は袋の素材。ようやく完成したポリエステル製の半透明袋はもろく、破れ防止のため、発売当初は箱の中にスポンジを入れた。

 だが、常温で3カ月保存できるといっても、問屋は信じてくれなかった。食堂で100円でカレーライスが食べられた時代。「80円は高すぎる」とも言われた。

 「ボンカレーは夜、1人で歩き出す」といううわさが流れたことも。袋に開いた小さな穴から微生物が入り、ガスが発生して袋が破裂し、並べた箱が動くことがあったことから、生まれた風評だった。

 発売開始から1年2カ月後、アルミ箔(はく)を使った新パウチに改良、賞味期限も2年に延びた。次は営業部隊の出番。公設市場の肉屋や乾物屋を回り、扱ってくれる店には、ホーロー看板をくぎで打ち付けさせてもらった。営業の責任者だった熊沢健さん(66)=現監査役=は「手ぬぐいも必需品だったんですよ」と振り返る。定期的に店を訪問して看板をふき、ついでに店頭に並ぶ箱のほこりもぬぐった。「そこまでする営業は大塚さんだけと言われたもんです」

 71年、熊沢さんは本土復帰を翌年に控えた沖縄にも営業に渡った。以来、根強い人気を保ち続けている。「松山さん版」は、従来の「お湯で3分」から、電子レンジで2分加熱の「進化したボンカレー」を発売した03年に製造を中止したが、沖縄だけは販売を続け、今も徳島工場で特別に生産している。現地では、観光客も「懐かしい」と、土産に買って帰る。

 「ボン」は、フランス語で「良い」や「おいしい」を意味する。約40年前、時代を先取りする技術と地道な営業で世に進出し、その最新復刻版は時が流れても変わらない母の愛情で出来上がった。

http://mytown.asahi.com/tokushima/news.php?k_id=37000000701090003