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2006年06月04日(日) 00時00分

戦前はたびたび合併浮上、競争意識でご破算 阪急・阪神朝日新聞

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阪神と箕面有馬(現阪急)との合併話を伝える1914(大正3)年の大阪朝日新聞記事

 驚きをもって迎えられた阪急、阪神の経営統合だが、戦前にはたびたび合併が取りざたされた。両社の社史などによれば、大正初期から昭和初期にかけて、両社の合併構想が新聞紙上をにぎわした。

 阪急の事実上創始者、小林一三も「合併談が具体的に2、3度あった。一度は仮契約に調印までできた」と回顧している。

 1913(大正2)年暮れごろから、阪急の前身の箕面有馬電気軌道と阪神の合併構想が浮上したが、「機は熟していない」と見送りになった。20年、27年ごろにも合併話はあったようだ。

 32(昭和7)年ごろには、当時の鉄道大臣が鉄道不振の解消策として両社に合併を勧告した。日本が太平洋戦争に突入した40年代まで、合併構想は断続的に話し合われたようだ。

 こうした統合計画が流れた背景には、激しい競争があった。例えば、全国高校野球選手権大会(当時は全国中等学校優勝野球大会)の第1回大会は15年、阪急沿線の豊中グラウンド(大阪府豊中市)で開かれた。それが阪神の働きかけもあって、第3回から阪神沿線へ移転した。第10回からは阪神甲子園球場で開催されるようになった。

 「甲子園建設の背景には、阪急への対抗心があった」と阪神の社史は明かす。

http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200606030074.html