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2004年09月26日(日) 05時34分

水上勉さんの小説「殺人犯のモデルは私」男性が名乗り読売新聞

 「あの小説のモデルは私です」——。強盗殺人罪で無期懲役刑を受け、現在は仮釈放中の新潟県内の男性(73)が、今月8日に85歳で他界した作家水上勉さんの小説「その橋まで」の主人公のモデルだと名乗り出た。

 「立ち直れたのは水上先生のおかげ」。第2の人生を支えてくれた“恩師”との出会いから36年。男性は28日に東京会館で開かれる水上さんとのお別れ会にも参列するつもりだ。

 ◆社会復帰の苦闘◆

 週刊誌で「その橋まで」の連載が始まったのは1970年。殺人罪で無期懲役の男性が仮釈放され、苦労を重ねながら社会復帰していくまでを描いたドキュメンタリー風の長編小説。

 男性は「小説の7割は真実」と話す。水上さんはあとがきで、殺人犯で、のちに仮釈放となった男性からつらい思い出話をきいているうちに「主人公にしてみたい欲求にかられた」とモデルの存在を記している。

 富山県出身の男性は、戦後の混乱期の中で窃盗や恐喝を繰り返し、少年院や刑務所に。そして、21歳の時、出所した直後に富山県内で母子を殺害する強盗殺人事件を犯した。判決は無期懲役。

 15年後の68年に仮釈放され、服役中に自らの生い立ちをつづった15冊の大学ノートを何人かの作家に持ち込み、「自分の人生に区切りをつけたい」と訴えた。耳を傾けてくれたのが水上さんだった。

 「いつかの日、あなたの苦難の人生史から、私が取材して、いい小説が書けることが出来れば、と思っています」と原稿用紙に書いた手紙を男性に寄せた。9歳で京都の禅寺に預けられ、その後、30以上もの職を転々とした水上さん。男性は「苦労の多い人生を送ってきた人。通じるものがあったのでしょう」と推測する。

 ◆話すと楽になった◆

 水上さんの取材は2年間に及び、広島や東京のホテル、軽井沢の別荘などにも同行。水上さんはいつも「話したくないことは、話さなくてもいいんだよ」と気遣ってくれた。炊事場を「炊場」、病院を「病舎」などという刑務所内の隠語を説明すると、「ほう」と感心した様子も見せた。

 男性は「水上さんにすべてを話すと、気持ちが不思議と楽になった」と振り返る。酒を飲みながら、「もう間違ったことはしなさんな」と諭されたこともあった。

 仮釈放から6年後の74年、自分の人生が一冊の本になった。「決して自慢できることではないが、地道につつましく生きていこうと決意がわいた」という。

 男性は出所後、刑務所内で身につけた印刷の技術を生かして、社会復帰に励んだ。結婚して1児をもうけた。結婚費用は水上さんが出してくれた。だが、“過去”の話はどこからか伝わり、印刷所で現金の盗難事件が起きると、真っ先に疑われた。沖縄と四国以外の地方を転々とし、住居は15か所以上も変えた。20年前、妻と離婚してからは1人暮らし。新潟県内に移り住んで5年になる。

 この間も、手紙や電話で水上さんとのやりとりは続いた。冷たい世間に嫌気がさし、水上さんに愚痴をこぼすと、「おれの目の黒いうちは、あなたに悪いことはさせない」とたしなめられた。

 ◆1人きりの通夜◆

 最後に会ったのは4年前。悲報を知った8日夜は、水上さんが大好きな大福を供え、線香を立てた。1人きりの通夜のつもりで久しぶりに酒を飲み、冥福(めいふく)を祈った。

 小説のモデルになったことは「他人には言わないように」と口止めされていた。水上さんが男性のことを思ってのことだ。男性はこの言葉を守り続けてきた。「私は死刑になってもおかしくない罪深い人間。先生との出会いがなければ、今の人生はなかった。亡くなったと聞いて居ても立ってもいられなくなった」と話す。

 ◆その橋まで=「週刊新潮」で1970年10月から2年間、連載後、74年に新潮社から出版され、80年11月にはNHKドラマ「シリーズ人間模様」で放映されるなどした。「新編・水上勉全集」(中央公論新社)に所収されている。
(読売新聞) - 9月26日5時34分更新

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040926-00000501-yom-soci