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2003年05月08日(木) 00時00分

『白装束集団は初期のオウム』? “類似”発言が不安増幅 オウム追及ジャーナリストが比較 東京新聞

 朝から晩までテレビは白装束団体「パナウェーブ研究所」の動きを中継している。追いかける報道陣の数は数百人だ。こうした映像の洪水に、お墨付きを与えたのが警察庁長官の一言だろう。「オウム真理教の初期に似ている」。反社会的行為を許さぬためにもメディアが監視するとの大義名分ができた。白装束集団は「初期のオウム」なのか−。

 ■警察庁長官の一言でお墨付き

 「佐藤英彦警察庁長官が、どの点が、オウムに類似していると言っているのかが分からない。凶悪犯罪を行ったオウムの名前を出すからには、もっと具体的に述べるべきだ。中途半端で思わせぶりな発言が、かえって不安を増幅しているのではないか」

 こう疑問を口にするのはオウム真理教の初期から被害者の声を聞き、犯罪性を追及してきたジャーナリストの江川紹子氏だ。

 「オウムの場合は、教祖の発言や出版物を見れば、彼らの考えは想像がついた。早い段階から、その権力志向や目的のためには手段を選ばない反社会的体質も明らかだった。パナウェーブ研究所は、オウム以上に荒唐無稽(むけい)で、何をやりたいかが理解できない。ただ、オウムのような攻撃性があるのかどうか…。林道を占拠するなど、問題行動があるのは事実だが、対決姿勢をあらわにしたオウムとは、やり方が違うような気はする」と、実態の分からない集団に首をひねる。

 週刊誌「サンデー毎日」の編集長時代に「オウム真理教の狂気」と銘打ったキャンペーンを展開、教団から命も狙われた牧太郎・毎日新聞編集委員は、オウムと比較してこう話す。

 ■終末論、お布施、絶対者…

 「白装束の集団には、オウムと似ているところと、全く違うところとの両方がある。超越的絶対者と奇妙な衣装で共同生活を営み、敵を設定する。例えばオウムは創価学会。白装束は共産ゲリラ。教義は終末論で、高額のお布施。白装束の集団には、『聖戦ファンド』という形のお布施がある。この手の新興宗教の究極の目的はお布施だろう。その点、オウムと似ている」

 さらに、類似点を挙げる。「千乃裕子氏らと生活を一緒にする人たちと、社会にいて帰依する大多数の人たちとの資金援助。横文字の多用や、平気で本から盗用する教義。『波動』と『光』とか、科学で解明されていない部分をテーマにするのもそうだ」

 逆に、オウムと違う点はどこか。牧氏は「オウムが野望集団で、『国家は宗教が支配するべきだ』という考えがあったのに対し、千乃氏らは、妄想集団と感じられる点だ。千乃氏を囲む同好会的なものだろう。オウムの場合は、同好会的な部分から戦闘的に変わっていったが…」と話す。

 双方ともに危険視されるのが「終末思想」だ。オウムは「預言」が外れると自ら「預言」を実現するため攻撃性を増した。白装束集団にその危険性はないか。

 ■極限状態なのかいまだ分からず

 牧氏は「サンデー毎日でオウムを取り上げた時点では、すでに教団内で『ポア』などが行われていた。それで報道に踏み切った。千乃氏らが各地でトラブルを起こしていると伝えられ、社会の中で喜ばしい存在でないことは確かだが、オウムのような極限の状態までいってるのか。そこが分からない」と話す。

 ■発端『タマちゃん』、テレビの好材料に

 さらに、オウムと白装束集団を比べて明らかに違うのは、取材対象としてのメディアのかかわり方だ。

 オウムの場合、その反社会性は牧氏、江川氏ら一部のジャーナリストがリスクを負いながら地道に掘り起こしてきたが、多くのメディアは、批判報道に対する教団の攻撃的な姿勢もあり地下鉄サリン事件までは追及に腰が引けていた。

 これに対し、白装束集団報道がブレークするきっかけは、「タマちゃん」だ。捕獲しようとして騒動になった「想う会」について週刊誌が追跡した結果、パナウェーブ研究所に行き着いた。白ずくめの異様さもあり、メディアが飛びついた。社会問題というより、話題性や映像としての価値が先行したといえる。そんな報道の在り方に危うさが潜んではいないか。

 江川氏は「マスコミが四六時中取り囲んでいることが、事故を誘発したり、彼らを追い詰め、極端な行動に走らせることになりはしないか。格好の異様さだけに目を奪われて追い回すより、彼らがこれまで何をやってきたか、その行動の問題に関する調査報道がなされるべきではないか」。

 カルト問題に詳しい作家の志水一夫氏は「妄想を抱いている人や団体は無数にある。その多くはオウムのような無差別殺人に走らない」と指摘し、反社会的な行為をするかどうかの境界線について解説する。

 ■疑似科学は間違いでも犯罪ではない

 「新興宗教は多かれ少なかれ、社会への恨みが出発点になっている。ただ、反社会的行為のきっかけになるのは危機感の高まりだ。白装束集団でいえば法的な根拠もなく『嫌いだから』という理由で締め出すのは村八分そのものだ。彼らの疑似科学は間違いなだけであって、犯罪ではない。疑似科学の存在そのものが犯罪だというなら、捕まってなきゃいけない出版社や著者は山のようにある。田舎でうろうろしているカルトをマスコミが追い回す。ヒステリックに追い詰めると被害者意識が拡大し、逆に暴発する危険がある」

 白装束集団に対する社会の監視だけは強まる中、集団が移動するとみられていた福井県和泉村も七日、入り口の封鎖を決めている。

 牧氏は「妄想集団をどこに住まわせるのかという問題もある。テレビ報道は視聴率を上げるためだけで、白装束という服装がすべてのような面がある。『車が何台動いた』とか、報道に値するのだろうか。冷静になって妄想集団と社会とが、どういうつきあいをすれば良いか、という議論をする方が大事ではないか」

 では、どうすべきか。カルト問題に詳しい紀藤正樹弁護士は「地方自治体にできるのは指導くらいで、村道を封鎖するなど移動阻止は本来許されてはいない。警察が逮捕してくれないのなら、自分たちで罰するという一種の“自力救済”が行われている。そもそも彼らの往来妨害罪がきっかけなのに、住民側が往来妨害で応酬する構図になってしまった」と説明する。

 「法治主義はこうした自力救済を禁止しているが、その前提となるのは法が公平に適用されることだ。この問題も、そもそも警察が往来妨害罪で逮捕さえしていれば、ワゴン車であちこち移動することもできなかった」と指摘する。

 紀藤弁護士は、こうした騒動が集団を先鋭化させる危険性もあると指摘した上で「基本的には彼らがどういう方向を選ぶかという問題だ」と話す。

 「創価学会や立正佼成会などは、当初は社会と対立していても、調和する道を選んで生き残った。新興宗教は社会的に受け入れられない部分を改善できなければ、追い詰められる。パナウェーブ研究所の場合はスカラー波から逃げ続けるという発想を止めなければ移動し続けるしかない」


http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20030508/mng_____tokuho__000.shtml

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